黒部節子・追加・その他

黒部節子さんの追悼講演について、ご子息晃一さんが公開しているサイトナンバーをお知らせしておきます。youtube黒部節子。アクセスしてみてください。

私は、といえば一月中ひたすら本を読んでいました。乱読です。どうしても詩集以外の本を整理しなければ住む所がなくなってしまうので、整理する前に買ったまま読まなかった本を、もったいないので手に触れるそばから読みあさったわけ。「フェルメール光の王国」(福岡伸一)・「砂の妖精」(ネスビット)・「水声」(川上弘美)・「薔薇のいれずみ」(T。ウィリアムズ)・ヴィクトル・ユゴー詩集・「山梔」(野溝七生子)・「シャクンタラー姫」(カーリダーサ)みんな面白かった。で、捨てる本はなく、また本箱へ。ことに好ましく、何度も手にしてしまうのは「エリック」という絵本。ショーン・タンというオーストラリアの画家の描いた小さな本。これは幼稚園の先生になった孫娘にもらったのだった。孫に良書を教えられるようになっては私もおしまいである。

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2015年2月

新年に豪語したというのに、なんと一ヶ月何も書かずに過ぎてしまいました。恥じ入っています。どうもなかなかマシンというものに慣れることができません。昨日、黒部晃一さんから電話をもらい、黒部節子さんについて私が講演(詩人クラブ主催)した折の動画サイトを公開したいと言われます。10年前、節子さんの死を悼んで私が追悼講演をした時の講演録だそうです。私もすっかり年老いてしまい、記憶が曖昧で、「え?そうだっけ」なんて言ってしまいました。慌てて、動画サイトなるもの開いたところ、「小柳さんのご紹介」といって、詩友長嶋南子さんの姿と声が現れびっくりしてしまいました。当然ですが、私も現れました。なにやらたどたどしく喋っていますが、とうてい正視できないので、消してしまいました。気が落ち着いたら、深夜にでもそーっとのぞいてみます。でも黒部節子ファンのために後日アドレスをお知らせ

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新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。忌中の新年ですが、そういうことには拘らないで残った人生を闊達に暮らすことにしました。亡くなった夫もそれを喜んでくれると思います。今年は娘一家と一緒に暮らすため、多少家を改築して、私は客間兼書斎と寝室だけの暮らしになります。十分なのですが書籍だけは片付けねばならずあたふたしています。詩集より画集の多さに我ながら呆れています。でも苦労の種があるほうが元気が出て助かります。昨年はどっと自由な時間ができて、秋から冬にかけて絵画展ばかり貪るように見歩きました。そしてますますカタログ類を増やし、身動きができない有様です。昨年暮に「きょうは詩人」29号が出来上がりました。今年はブログを真面目に書いていく心づもりです。あくまで予定。

 

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2014年9月

あっという間に9月も過ぎて行く。いつも同じように月日の過ぎて行く速さに驚いてばかりの通信で恥ずかしい。読書の続きを書く予定がこんなに遅くなってしまった。村田喜代子著「屋根屋」「じょろうこう」ボルマン「沈黙を破る者」ドラブル「針の眼」それから書評を依頼された外村京子詩集「十月の魚」。ドラブルは退屈で面白いという不思議な小説で、なんと読み終わるのに数か月かかってしまった。その間に「屋根屋」にうっとりし、「じょろうこう」に感動し、なんとも有意義な読書だった。

所属詩誌「きょうは詩人」には、「どんぐり転々」という詩を書いたが、全く新しい方法を試みたので不安だった。何人かの詩友が珍しく「面白かった」と言ってくれた。褒めてくれたのではない。書かれたことが可笑しかったのである。でもつまらないよりいいか。

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絵のこと詩のこと

家の中のごたごたが少しづつ治まり、美術館に出かけたりできるようになりました。かって好きだったバルチュスが上野にきているので、岡山から上京した苅田日出美さんと見に行きました。もっとも気が弱くなっているせいか、バルチュスの退廃の気配には馴染むことができず、なんとなくしょげた気分で退出。ことにバルチュスの猫は地獄から出てきたような禍々しい顔をしているので怖かった。帰路に寄った西洋美術館のハンマースホイの絵に慰められる始末でした。絵というもの見る側のその折々の心の在り様で違ってくるものですね。1984年、わざわざ京都に行って観たバルチュス展はどうしてあんなに惹きつけられたのか、なんともちぐはぐした気分。

詩を書いたり読む時間がやっと戻ってきた。気ままに読み漁り、喜んだり、がっかりしたりしている。吉田隶平さんの「彼岸まで」はご本人が詩とも箴言ともつかないと断っていられるが、どちらでもかまわない、私は心惹かれて読んだ。文中から察して吉田さんは七十歳くらいになられたのだろうか。また一冊を通して澄んだ哀しみのようなものが流れているので、親しい人を亡くされたのだろうかとも思った。私自身が年々身近な人と別れていくので(まあ、当たり前なのだけど)淋しさに敏感になっているのかもしれない。「喜びは」という一篇は死んで「よくなっていく顔」と「苦悩を浮かべてゆく顔」があると書いている。先日私が見送った家人は眠るように死んでいったが、家庭で私の腕の中で息を引き取ったため一晩警察病院に預けられた。翌日、警察から戻ってきた死者は亡くなった日よりさらに安らかに、少し笑っているふうであった。よほど安心したのだろうか。詩を読んで自分のことに引き寄せてしまうのはダメな詩人なのかもしれないが、そんな外向きのことはどうでもよいと思う年齢に私はなってしまった。

塩嵜緑さんの詩集「魚がきている」も魅力的だった。繊細で気品があり、やはり時間の中を自在に行き来する感性に惹かれた。また詩誌「水盤」13の福間明子さんの「不都合な理由」が面白かった。なにやら哲学的で小生意気な御託を並べて、日々のご飯作りに専心している奥さん。「ねんねんさいさいはなあいにたり その美は普遍的 必然的」と言っておいて、もう一人の冷めた自分は「ほめるだけでいいのに ややこしく窓辺に座っている」のである。福間さんらしいケロッとしたユーモア。

こんなことを書いてるうちに金曜日も日暮れてしまい、郵便局の用事が足せなかった、医院に行き血圧の薬をもらうのを忘れてしまった、土曜、日曜血圧を上げないように静粛にしていなければ。

 

 

 

 

 

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